FUJIMI HERMITAGE DIARY

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野菜作り

野菜生活について

信州の田舎の生まれだったから、子どものころは、田んぼや畑に行って大人
たちに交じってあれこれ手伝いをした。米作りのプロセスなどは季節の移り
変わりの思い出といっしょにひととおり覚えている。

春、前年たいせつに残しておいたモミをタライにひたして発芽させ、専用の苗床
でていねいに苗をそだてる。田んぼを耕し、水を引き、牛や馬や人の足を使
って、かきまわし、ぐちゃぐちゃの水田とする。専用の牛車、馬車もあった。
肥料もこの頃まくのである。ぐちゃぐちゃの水田を鏡のように滑らかにした
り、碁盤の目をつける道具もあったなあ。そして。稲の苗を広い田んぼへ持
ってきて碁盤の目に沿って移植する。それが田植えである。その後、毎日の
水量、水温の調整があって、数回の田の草とり、ヒエ抜き、消毒…、とにか
く延々と米作りの仕事は続くのである。いくつかの台風などをやり過ごし、
稲穂がめでたく頭をさげれば、稲刈り、稲こきと、収穫の季節を迎える。さ
らに脱穀、精米と、前年のモミが輪廻して再びご飯として人の口にはいるまで
には、百万もの手仕事があったのである。

農作業の節目節目ごとのお祝いや祭りなどもあって、それらを思い起こすと
涙目になる自分を禁じ得ない。田植え、稲刈り、稲こき、この3大行事には
親戚が総出でやってきて手伝ってくれる。学校はいっせいに休みになるから
子供たちも狩り出される。昼は田んぼの脇で春日八郎のラジオを流しながら
輪になってランチをとり、夜は締め殺したニワトリや馬肉のナベが出される
豪勢な宴会がしばしば開かれた。
往時を思うと、僕の周辺にいた家族や近しい人たちの表情や仕種などもいっ
しょにマブタに浮かんできて、再び涙目になる自分を抑えられない。
嗚呼、あの祖母も、あのおじさんも、あの酔っ払いや、かの村一美人のおね
さんも、みんな今はない。なんとみんなよい人たちであったことよ。
小学校の稲刈り休み、イナゴを取ったり、お茶や弁当を運んだりするのが子
供の仕事であった。ひと仕事が終わって、落穂ひろい。ふと見上げればあち
こちの田んぼから紅葉黄葉の山々に向かってたなびく幾条もの青い煙…。

いやはや、ほんと、忘れがたきふるさと、の貴重な思い出である。
かつて私がネパール王国に足繁く通ったのは、ヒマラヤのジャイアントへの
あこがれもあったけれど、ほんとはそんな農村の光景を見たかったからなの
だ、と今あらためて気がついたところであった。

閑話休題。
畑もたくさんあって、いろいろな野菜を作っていたから、いまでも、そのこ
ろ作られていた野菜なら遠目でもなにがなんだか、は分かる。田んぼの畦道
に植えられていた大豆が、枝豆として食べられることやズンタモチに化ける
ことも知っているし、あずきがどんな風に育ち、アンコになるかも分かる。
え、枝豆って大豆なの?とか、なすの葉をみて、大根?じゃがいも?などと
言う都会人に会うと苦笑いといっしょにちょと憐れみも感じてしまうのだ。
米はどこそこのササニシキがいいとか秋田小町よりもドマンナカがうまいと
か講釈を言う人は多い。しかし、米には、うるち米ともち米があるという基
本的なことを知っているひとは意外に少ないということをぼくは都会に暮ら
してから知ったのであった。

田舎から東京にでてきて、十数年は、そんな田舎の暮らしとは縁遠い生活が
続いていた。そのうち、外食続きの食事やスーパーマーケットでパックされ
ている野菜などを使った食生活に、次第に飽きがやってきた。というよりも、
都会の生活の空しさに気が付いたという方が適当かもしれない。
ある日、夏の畑でかぶりついたトマトの味を思い出したのがきっかけだった、
と言っておこう。私が畑作りに目覚めた瞬間のことである。そして、そのと
きから私は野菜作家となった。トマトやなすやキューリを自力で作りはじめ
たのだ。畑はベランダの鉢だったり、近所の菜園だったり、田舎の実家の畑
だったりしたが、春先に苗とわずかな肥料を買ってきて、植え付けると、い
ともかんたんに見事な野菜たちが育ってくれることを知って、いろいろな野
菜を作り続けることになった。自分で作った野菜を収穫する満足感は誰にで
も容易に想像ができると思う。週末、実家の畑まで、高速道路を使ってでか
け、自分で作った少量の野菜を積んで再び戻ってくるのは、コスト高ではあ
ったけれど、趣味の畑仕事と思えばたのしいものだった。家中ではこの考え
かたに賛成するものは少なかったけれど。

さて、
富士山の裾に越してきて、まず考えたのは、この畑作りだった。
火山灰の土地だったから、ろくなものしかできないということは分かってい
た。さっそく人に頼んでトラック一杯分の土を運んでもらった。いろいろと
注文をつける才覚はなく、畑に使う土、とリクエストしたような気がする。
火山砂の敷地を20畳くらい掘り起こして、黒土と入れ替えた。まわりには
枕木を置いて境とした。この黒土でいろいろな野菜ができると、そのときは
ほくそそえんだものだった。
ここ海抜1000メートルの高地では、私の思惑は外れた。かんたんに野菜
はできてくれなかった。
二つほど問題があった。

客土された黒土は、静岡か山梨か、どこか近隣の使われなくなった畑からも
ってきたものだったようだ。はじめの年は雑草がにょきにょき生えてきて野
菜の苗を淘汰する勢いで、雑草のジャングルようだった。とくにスギナ、つ
くしの親戚なのだろうか、これがひどかった。抜いても抜いてもあとからあ
とからぞくぞくと現れてくる。このスギナ退治には実に数年がかかった。毎
朝畑をじっとにらんでスギナの頭がでていると鬼の首をとるような勢いでシ
ャベルをいれて根こそぎにする。スギナは地下茎で、根は深く、その根はベ
トコンのトンネルのようにあちこちに繋がっているのだった。スギナの殺戮
者にはたとえ1ミリほどの芽が現れてもただちにスギナと識別できたのであ
る。一時はスギナの林の中でスギナに絞め殺される夢を見たほど私はこの植
物にとって蒙古的脅威であった。
もうひとつは、ここの寒冷な気候だった。雨が多く、夏の日照時間が絶対的
に足りないようだった。トマトは青い実のまま朽ちはて、なすやきゅうりは
貧弱な数本がその年の収穫だったりした。嵐がくればここは近辺のどこより
も風が激しく、トウモロコシやねぎが全部なぎたおされることもあったのだ。
なぜか宮沢賢治を気取ってみたりしたのはこのころだったような気がする。
苦節数年、スギナはほとんど消えたが、残念ながら寒冷地におけるアマチュ
ア野菜作家としては、いまだに初心者の域をぬけてはいない。
菜っ葉、じゃがいも、大根などがいちおう収穫できることがわかった。ねぎ
もよい。これは実に、越冬する。多年草なのである。1メートルの積雪に耐
え翌春青々と復活する姿は美空ひばりか、不死鳥か。いずれにしても、以上
の野菜は野菜作りとしては初級といえよう。さらに、トマト、キューリ、な
すなどワンランクアップした野菜も作りたいのだが、研究心の不足にくわえ
困難にでくわすほどにめげる体質だから、一二度の失敗に懲りてそのママに
なっている。

トマト、キューリ、なすなんて簡単にできるよ、と言いたい人もいようが、
それは温暖な土地にすむあなたが言うこと。この海抜1000メートルの山
中では、トマト、キューリ、なすは比較的高度な野菜作りの範疇に入るので
ある。私も関東平野在住の頃は、鼻歌交じりでそれらの野菜を作っていたと
いう実績を持つものなのである。

いま20畳の畑にに育っているのは、結局、野沢菜とじゃがいもとねぎ、そ
れにいつ頃捲いたものか忘れてしまったけれど、しそと唐辛子の子孫たち。
これが
ここの定番の野菜である。
ここで本日の特別講義。丹精を込めて作った野菜たち、と自分が栽培した野
菜を形容して吹聴したいところだが、野菜というものは、意外と元気な植物
であって、丹精を込めなくてもけっこう育つものだということを、とくに都
会人のあなたには教えてあげたい。ジャガイモ、ねぎ、菜っ葉の類などはほ
ったらかしでも大丈夫。詳細はともかく、大雑把にいえば、畑にチッソリン
サンカリを混ぜ込んで耕し、種あるいは苗を置けば、あとは手間いらず、菜
っ葉はあっという間に、ジャガイモは80日後に、ねぎはその夏から翌年、
さらにその翌年までがんがんと、取りきれないほど収穫ができるのである。
私の関東平野在住の頃の経験では、平地ならトマト、ナス、きゅうりもこれ
とまったく同様。とにかくカンタンに野菜というものはできるのである。
粗雑農法といわれているのが、このやり方であるが、そういえば私の畑に育
っているのはまさにその粗雑農法にぴったりの作物たちであった。
害虫よけの農薬なども一切つかわないから、虫たちに先に食べられてしまう
こともあるが、それがエコロジーというものであろう、と納得している。有
機農法とは粗雑農法の別名なのかもしれない。

かくして、本稿の最終的テーマは,都会生活のあなたに勇気をもって野菜作り
に挑戦することをおすすめする、ということにめでたく帰着したわけである。
機会があればいずれ、いま畑にある比較的地味な私の好きな5大野菜を利用
したカントリーな食卓メニューを紹介したいものである。少しリークすれば、
それは沢庵つけであったり、菜っ葉のサラダであったり…、おっと、これ以
上は、今は言うべき時ではない。
糸尾汽車

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