IN THE WOODS

s.kashiwa

「これが小屋番の岩登り」

 最近、北アルプスにある北穂高小屋の取材をしている。北穂高岳北峰の頂上直下。
切り立った岩ばかりの稜線に、へばりつくように立っている小さな山小屋だ。一昨年
に、山岳雑誌の企画で北穂高小屋の主人・小山義秀さんをインタビューして以来、私
はすっかり北穂高小屋に魅せられてしまった。ぜひ、書きたい、書かせて欲しいと、
小山さんにお願いしたのだ。理由はいくつかあるのだけれど、それは別の機会に。

 今年は、4月21日の小屋開けから参加させてもらった。雪がべったりとついた春の
北アルプスにヘリコプターで入山し、雪の下に埋まっている山小屋を掘り起こし、GW
には営業を開始できるようにするのだ。除雪作業といい、その後に数回通った際の山
小屋の仕事といい、私は、もちろん戦力外。それどころか、不慣れで邪魔ばかりして
いる。
 それでも、北穂高小屋の方々が私を温かく受け入れてくれるので、取材を続けるこ
とができるのだ。感謝の思いでいっぱいだ。なんとかいい本を書かなければならない
(これから出版社を探します!)。私はいつも、従業員の方々の優しさや真心に触れ、
心があらわれる思いになる。

 今回は、8月15日に入山した。途中、激しい雷雨に打たれ、濡れ鼠になって小屋に到
着すると、支配人の足立敏文さんの姿はなかった。数日前の電話では、足立さんが「天
気がよければ、滝谷に行こう」と言ってくれたので、ギアを持ってきているのだが。
 どうやら、足立さんは、大キレットで起きた事故の救助に行っているようだ。夕食
の準備が始まった頃に、びしょぬれになって帰って来た。すぐに雨具を脱ぎ捨てて、
お客様用のしょうが焼きを作り始めた。先ほど、頭部をケガした登山者を救出し、雨
の中ヘリコプターを待って、無事収容したばかりだ。次は大なべの前に立って、80人
分もの料理をするのである。なんというギャップだろう。本当に山小屋の方がたには
頭が下がる。

 前回の訪問のとき、居間でテレビを見ていた足立さんに、「今年は北穂イヤーなの
で、滝谷を登りたいと思っているんですよ」と話した。そしたら、「いつでもお付き
合いしますよ」という応えが返ってきて、びっくりした。想像もしていなかったから
だ。誰かクライミング仲間に付き合ってもらうしかないって思っていた。 足立さん
は、大学生の頃から北穂高小屋で働いている。20余年前のことだ。大学の専攻は鉱物
学で、北穂高岳周辺の岩石について研究をしていたという。小屋が営業している4月か
ら11月は、ほとんど山にいて、残りの日数を下界で過ごしていたらしい。下界にいる
ときも、いろいろなところ(どこかは内緒)に通っていて、話を聞くに、ずいぶん忙
しそうだ。いくら8年かけたといえ、どうやって大学を卒業したのか、ちょっと不思
議。
 その頃から登山や岩登りをしていて、滝谷は数え切れないぐらい登っている。今回
のお目当てルートである「ドーム中央稜」は、20回ぐらいは登ったらしい。こんなに
たくさん登った人は、きっと他にはいないはずだ。山岳ガイドも顔負けのツウである。
 17日にチャンスがやってきた。とはいっても、この日は「ヘリの日」だった。上高
地のヘリポートからヘリコプターが飛んできて、北峰頂上に食糧や燃料などの荷揚げ
品を下ろしていく。それを、小屋のそれぞれの所定位置まで運ぶ作業があるのだ。数
回しか経験したことはないが、大変な肉体労働なのである。こんな忙しい日に、のん
きにクライミングに行ってよいのだろうか? 心配だったけれど、小山さんは気持ち
よく送り出してくださったし、他の従業員やアルバイトの方々のおかげもあって、私
のクライミングが実現できた。

7時半、朝食を終えたあと、出発の準備に取りかかった。
「雨具や水どうしましょ? 小さなザックでいいですよね」と聞くと、
「雨具も水も要りませんよ。ザックはひとつ。10時のお茶の時間には帰ってきましょ
う」と足立さん。ずいぶん身軽な滝谷クライミングである。水筒もないのなら、と私
は慌てて、コップ一杯の水をゴクゴクと飲み、足取りも軽く小屋をあとにした。
大型の台風がゆっくりと日本列島に近づいている。あと4日もすれば、ここも暴風雨に
なるはずだ。その台風の影響で、東の風が吹いていた。いつもとは反対だ。これは、
ラッキー。滝谷側はめずらしく無風かもしれない。「明日は絶好の滝谷日和になるよ」
という足立さんの言葉が的中した。
滝谷は2回目だ。前回のルート自体はとても簡単だったけれど、いやらしい下降が好
きになれず、その後、滝谷を敬遠していた。しかし、北穂高小屋に通うようになって、
毎回滝谷を眺めるうちに、また行きたいと思うようになったのだ。
私は、10年以上前になる初めての滝谷クライミングを思い出しながら歩いていた。大
学で本格的(?)に登山を始めて間もない頃、クラブのOB先輩に連れられて、第二尾
根を登った。このルートはクライミングというよりも岩稜歩きのような初心者向けだっ
たけれども、初めて滝谷という独特な世界に入り込んだことを、鮮明に覚えている。
唯一クライミングらしいムーヴができる水野クラックをリードさせてもらったのも気
持ちよかった。あれは、本チャンにおける私の初めてのリード体験である。
そして、2回目は、北穂高小屋の足立さんとドーム中央稜だ。私はなんて恵まれてい
るのだろう。しばらく稜線を歩き、ドームを過ぎたあたりから滝谷側へ降りていく。
ここからは、別世界になる。比較的しっかりとした踏み跡がついている。下手に見え
る第四尾根には2パーティが取り付いているようだ。上空からはヘリコプターの音が
してきた。荷揚げのヘリがやってきたようだ。
しっかりとした残置アンカーのある個所で、1Pの懸垂下降をし、少し行くと、ドーム
の基部に到着だ。小屋から小1時間でクライミングを始めることができる。見上げる
と顕著なチムニーと上部にはチョックストーンが確認できる。傾斜があり迫力満点だ。
わくわくしてきた。
ふたりはクライミングシューズに履き替え、互いにロープを結んだ。私は、取付にあっ
た古びた残置ハーケンを3枚使ってセルフビレイを取り、足立さんは2人分のトレッ
キングシューズが入ったザックを背負って登り始めた。
 最初は大きなホールドとスタンスを拾って登り、やがてチムニーに入っていく。な
んでも、チョックストーンを越えるところが核心らしい。そう難しいわけではないの
だが、背中のザックが邪魔をすることになるって、足立さんは登る前から予言してい
た。20数回目だから、予言ではなくて、そう、私に教えてくれたのだ。その言葉どお
り、足立さんの動きがちょっと止まった。落石を避けて岩陰に隠れてビレイしている
ためによく見えない。次の瞬間に、足立さんのからだがふぃっとチムニーの外に出て
上に消えていった。どうやら抜けたようだ。「ビレイ解除」の声があった。
 次はいよいよ私の番。初めてのルートは、いつもわくわくする。どんな岩質だろう、
どんな感触だろう、どんなルートが飛び出てくるのだろう。ランニングビレイを回収
しながらチムニーに向かった。大きなトンネルだ。チョックストーンを越えると、小
さなテラスに出た。
 2P目はフェースから始まる。すぐに左側のカンテに移り、足立さんの姿は見えなく
なってしまう。やがて上部のフェースを登っている足立さんの大きなからだが見えた。
 足立さんは、がっしりとしたからだつきの方だ。いつも聞かせてくれるこれまでの
仕事のことやスキーや山登りの話から想像するに、多分、いや絶対、足立さんは、すっ
ごく頑強な身体をもっていて、運動神経がずば抜けてよいはずだ。
前回、「体重を落とさないと岩登りにはきついな」と話していた足立さんだが、今回
会って開口一番に、「11キロ落としましたよ」ときた。これを聞いて、私はますます
嬉しくなった。しかし、よくよく聞くと、特別に滝谷クライミングに向けて落とした
ようではない。どうやら、小屋の仕事が始まると、ちょっとした調整で減量できるよ
うだ。「私も減らしてきましたよ」と喉まででかかったけれど、大した量でもないし、
どうやら気付かれていないようなので、黙っていた。
 2Pはロープ半分ぐらいの短いピッチだった。
 この先は、約1P分ぐらいコンテで進んだ。これがわかりにくい。ふみ跡をつづら折
のように登っていくと、次の取付がある。
 足立さんが「いつもこんなにポンポンと登らないでしょ」と。
「ええ。取付まで迷って、ピッチの切り方に失敗しててこずって」と私は答えた。そ
れに比べ、今日の岩登りは完璧だ。取付までは、足立さんの案内ですんなり到着。ピッ
チもうまく切って、ロープの流れも万全。
「これが小屋番の岩登りですよ。休み時間にササッと登るんです」。
 3P目は、フェースから凹角を登って、またフェースに移る。これも短いピッチだ。
最後の小さなフェースには、残置スリングがある。これをつかむとA0らしい。大きな
スタンスはあるのだけれど、次の一手がないのだ。壁も立っていて、スタンスでムー
ヴを保持しにくい。ところが、ちょいと腰を入れて、ワン・ムーヴおくと、上のガバ
がつかめるのだ。こんな発見が、岩登りのおもしろさだ。
足元には蒲田川右俣谷が広がっている。緑の木々の中を流れる川がキラキラと光って
いるのがわかる。風はほとんどなく、滝谷特有の霧もない。岩もからっからに乾いて
いて、気持ちよいほどフリクションが効く。自然のなかでの岩登りが、私は大好きだ。
縦走路から少し離れると、岩だけの静寂な世界になる。自分の五感を研ぎ澄まし、か
らだの能力を存分に使って登るのが心地よい。
最終ピッチは、私がリードをさせてもらった。浮石も減って安定したピッチだった。
顕著な凹角を登り、ハーケンが連打されているクラックを眺めながら、右に巻くよう
に登ると、別のクラックがあった。人間の能力というのは、すごい。いろんな形状の
岩に出会いながら、うまく解決策を見つけて登っていくのだ。そのクラックは考える
まもなく、からだがレイバックのムーヴをとり始めた。快適だ。登り終えると、終了
点。
続いて足立さんもすいすいと登ってきた。
これで、楽しかった滝谷クライミングも終わりである。「ハーネスも全部このザック
に入れてください。昔は、ガチャガチャさせながら小屋の周りを歩くのはご法度だっ
たんです」と教えてくれた。小屋で働く人間が岩登りに出かけることを、雇い主とし
てはかなり心配していたのだろうか。これも、小屋番の岩登り流儀かもしれない。
記念撮影後、ドームの頭直下にある、足立さんのお知り合いの慰霊碑をお参りして、
小屋に戻った。すがすがしい気持ちになった。
 小屋では、アルバイトの男の子たちがお茶を飲んで休憩をしていた。私よりも一回
り以上年下の若者たちだが、みんな素直で心根が優しく、小屋の仕事に不慣れな私を
助けてくれた。入山以来、絶不調でパブロン漬けだった私の体調も、いつのまにか毒
が抜け切ったように回復していた。
ギアを片付けていると、足立さんは「西壁も継続しようって言いかかっていたんだけ
れどね」と言った。またもや、嬉しくなってしまう。ドーム西壁雲表ルート。これも
楽しそうだ。第四尾根もある。もったいないから、またの機会にとっておこう。

文 柏 澄子

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