穂高の岩登り

climbing in hotakaK


都築由夫
 
    
 友人には山好きが多いが、なかには岩登りをするものもいて、機会があれば誘って
もらう。
普通の山歩きとは異なって、登っている時間は短くても密度の高い時間が味わえるの
で好きだ。両手両足をつかって、岩の凸凹をたくみに利用し、ルートを考えながら上
へ上へと登っていく感じがいい。怖いという思いがいちばん強いが、のぼり終えたと
きの達成感は格別。汗をたっぷりかいてぜいぜいと息をはずませることになる。充実
の時間だ。 
 滝本という友人に誘われて北アルプスの穂高岳へ行こうということになった。夏の
穂高だ。
一般縦走路ではものたりない。滝本はクライマーだ。私もたまには(1年に5、6度
か)クライミングのゲレンデにいって自分のグレードにあった岩登りの練習をしている。
夏はやっぱり穂高のクライミングだね、ということで、涸沢から北穂高の東稜をの
ぼって、滝谷を登るプランをきめた。
もう若くないんだから、山小屋を利用していこうよ。と意見が一致。

 車で都内を朝いちばんで出て、沢渡まで入り、上高地から歩き出した。天気もまず
まず。夏休みのシーズンに入っているから登山者は多い。
山は中高年者の登山ブームで大にぎわい、という現実を目のあたりにする。そういう
われわれも充分中年の域に入っているのだが。国民の人口比から考えるとそれが当然
なのかもしれない。
滝本が言う。「クライマーは少ないね」われわれは、ロープや登攀用具が入ったザッ
クを背負っているのだが、脇にヘルメットをつけている。クライマーはそれで見分け
がつくのだが、そんなスタイルの人種があまり見当たらないのだ。「岩場が空いてい
ていいかも」こんなにたくさんの山好きな人がいるのに、ハイキングも悪くないけれ
ど、岩登りという登山のいちばん面白い部分を味わはないのはもったいない。最近
は、タフな中高年も多いのだから。
 横尾には3時についた。あと2時間で涸沢までいけるのだが、二人の間には「のん
びりいこうよ」というムードがただよっている。明日は北穂の小屋まで行けばいいの
だから、横尾を朝いちででれば充分。そんな気持ちの二人のまえにいきなり「生ビー
ル」の看板。そのままビール痛飲、風呂経由夕食後熟睡というコースが待っていた。
 よく朝。顔を洗いながら滝本が言う。「ここから上の小屋には風呂はないから、こ
こに泊まれてよかった」彼ももうオヤジなのである。涸沢まで上がれば山小屋だから
風呂にははいれない、というわけだ。山にまできて風呂、風呂というのなら山ヘなん
か来るな、という一部意見もあるのは知っているが、じつは私も滝本のつぶやきに同
意してしまうオヤジなのである。だいたいクライミングするのに山小屋を利用するな
どということも昔の方たちはあまり考えつかなかったプランではないだろうか。
 涸沢まではよい天気であった。涸沢槍がくっきりとガスのうえに浮かびあがり、思
わずカメラをだしてしまう。いつきても新鮮な感動を覚えるところだ。涸沢小屋のテ
ラスで休んでいると、前穂高岳の北尾根にガスがわいてきて、1峰、2峰と順番に視
界から消えていく。
夏の山は、朝早くが天気がよい。日が昇るにつれてガスがわいてくる、という常識を
思い出した。もう10時、あわててザックをもちあげ、北穂高岳の東稜へとむかう。
一般路をはずれると、私たちふたりだけになる。ガスってきて視界も悪くなる。
「やっぱ、きのう涸沢までのぼって、今朝いちばんに登ればよかったかな」
「………」滝本答えず。
ガラ場を登り東稜にでる。涼しい風がふいている。このルートは一般縦走路ではない
が、難しい岩登りでもない。ロープを使いたいところも一部あるが、そこもうまく
ルートファインディんグすれば歩いて登り下りできる道がついているのだ。われわれ
は雰囲気をたかめるためにも、ヘルメットをかぶりハーネスをつける。せっかくだか
ら稜線を忠実に辿ろうよ、と滝本が言う。
岩稜だから登り下りはあるが、稜線のいちばん高い場所をつねにキープして登ろうと
いうわけだ。
 ガスが濃くなってきたが、雨がふるわけでもない。のんびり登る。あわてる理由も
ないし、ゼイゼイしているからスピードもでないのだ。ゴジラの背中というところで
ロープをだして写真をとり、証拠をのこす。こうやって、高山の岩稜を登るのは気持
ちがいい。いつのまにか北穂高山荘の前にでる。2時。このころのにはすっかりガス
で視界はとざされている。
荷物を置いて、休んでいると、「ドームまでの道を見に行こう」と滝本が言う。
滝本は古いクライマーではない。数年前からクライミングにはまった口だから、いわ
ゆるフリークライマーだ。北アルプスなどの高峰のクライミングの経験はあまりな
い。クライミングはうまいが、いわゆる本ちゃんの経験はあまりないのだ。明日登ろ
うという滝谷のドームも初見参なのである。だから、下見をしておきたいと言うわけ
だ。
 本ちゃんの岩場ではルートをよく知っている人でないと道を間違えるものだ。かん
たんなトポをたよりにきて、結局ルートの取り付きが分からなくて敗退したという話
はゴマンとあるし、そのへんがフリークライミングのルートとちがうところだ。
 とにかく明日のためにルートの取り付きを確認しておくという姿勢をみせる滝本は
えらい。小屋をでて縦走路を進む。ガイドブックのとおり、南峰を超えて下りにかか
るところでクサリ場があらわれる。滝谷のクライミングルートを登るには一度縦走路
から滝谷側へ何百・も下らなければならない。危険な下り道を降りてルートの取り付
きに達し、再び岩登りして登りかえしてくるというのが滝谷のクライミングなのであ
る。まさに、無償の行為というよりも徒労の見本というものだ。すべからくスポーツ
とはそんなものではあるが。「ここ、ここ。クサリ場からかすかな踏み跡がある、と
書いてあるから……、お、これだ」滝本がクサリ場をはずれガスに煙る危ういガケを
覗き込み、下り始める。
私はクサリ場をクサリをつかっていちばん下までくだってみる。ガスのなかから滝本
があらわれる。「間違えた。クサリ場の下から踏み跡に入るみたいだ」みるとしっか
りした踏み跡が足下から滝谷のほうへ向かっている。登山道のように立派な踏み跡
だ。よほど何人もの人があるいたらしい。
「数百メートルほど下り、ステンレスのボルトのあるところで懸垂下降する、と書い
てあったな」ロープなしでどんどん下る。踏み跡がいくつにも分かれてきたが、多分
あの方向だろうと見当をつけてさらに下る。
 それにしても怖い下りだ。一歩間違えれば谷底へと転がっていてしまう。ロープを
だして下ればよいようなものだが、それも大変だし、しっかりした確保支点があるわ
けでもない。アルパインクライミングはアプローチのほうが危ないことがあるといわ
れるけれど、ここなど、その典型だろう。
こんなにくだってよいのだろうかと思うころ
「あった、あった」ステンレスのボルトを指して滝本がいう。
ここからは歩いては下れない絶壁。ステンレスのボルトを支点にしてロープを使い懸
垂下降をすれば取り付きに達することができるわけだ。
「OK。これでよし」
もうひとつ心配があった。持ってきたロープで足りるだろうか。僕らはフリークライ
ミング用の10、5ミリの50メートルロープ1本しかもってきていない。25メー
トル以上の懸垂下降は不可能だ。絶壁をのぞいて見るがガスで下までは見えない。
「たしか大丈夫のはずだよ」滝本、自信なし。
 暗くなる前にと大急ぎで、小屋にもどる。若主人に聞いてみると
「50メートルロープならだいじょうぶですよ」とうけあってくれたのでっひと安心。
とはいえ本ちゃんのルートでは、なにが起き るかわからないから、ロープは2本ほし
いね、と反省する二人だった。
 おいしい夕食後、小屋に備え付けの滝谷ノートをみる。滝谷を登るクライマーが書き入れる入
山記録だ。たくさんの人がいろいろなルートを登っている。小屋に泊まってクライミ
ングしている人もけっこういる。「ここは昔からクライマーの宿ですから、どんどん
使ってください」若主人が言う。涸沢のテントからここまで往復するのはたいへんだ
からこれからはここに泊まるひとがふえるだろう。

 翌朝、なんのことはない。ざーざー降りの大雨。
「こりゃ、クライミングは無理だね」天気予報をきくと台風がきいているらしい。これ
以上ひどくならないうちに下りようと、衆議一決。
土砂ぶりの雨のなかを退散したのだった。

 滝谷の岩登りはできなかったが、昨日の東稜の岩登りが楽しかった。昨日の滝
谷の下降路の探索もスリルがあって面白かった。小屋での一夜ももちろんだ。急転直下
の悪天も高山ならでは。フリークライミングと異なって、高山のクライミングはいろい
な要素があって賑やかだ。来てみて初めて納得のこともあった。
アルパインクライミングは山登りをさらに面白くしてくれる素敵なジャンルだ。


 

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