MY CLIMBING LIFE AS WAY OF LIFE
ボクらの時代の神話。
アラビアのロレンス、ブ−ルにテレイ、ブッチとサンダンス..といきたいところ
だが、神話の起源はそれよりもずっと前だ。
マンガのイガグリくんと、テレビ創成期の月光仮面あたり。
彼らは子供の頃ボクの心に永いあいだ英雄として君臨していた。
30にさしかかったときに、リチャード・ドナーの手でリメイクされた新生スーパ
ーマンにさえわくわくしちゃったのだから、もうすぐ50に手の届きそうないまも、
この手の幼児性はあまり変わっていないかも知れない。
26のときにネパール、インド、パキスタンとふらついていたが、丁度デリーにい
たときに、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」が公開された。公開された日に主演
している当人が死んでしまったというので、街ではすごい評判だった。
3日間毎日、暗闇を蚤の飛び交うシアターに通って夢中になってしまった。このヒ
ーロ−は超能力もないし、妙なウェアーをまとっているわけでもない。鍛え上げた生
身だけで敵に立ち向って行くところが鮮烈だった。
ついでにいうとフリ−クライミングも彼に倣って生まれた...じゃないかなあ?
ボクの人生観の底に棲むヒーローは、弱いひと困っているひとの側に身を置きたい
という、ボクの無邪気で独りよがりな気高さを負っているらしいのだ。 もっとも1
0代の大半と20代のはじめを殆ど長距離ランナ−として過ごしたから 、早いうち
から自分が相当地味に、つまりヒ−ロ−には程遠いレベルに生まれたことが分かって
もいた。陸上は極端に層の厚い世界で、下にも上にもきりがない数のランナ−が目の
色変えて速く強くなろうとしていた。だから、それまで叩き込まれていた何にでも”
勝敗”を持ち出すような価値観には、ちょっとうんざりしていたのだ。
私は自分の名前が呼ばれてから登りだすのでなく、自分が登りたいと思う
ときに登りたいのです.....ウオルフガング・ギュリッヒ
>>> 76年 ネパ−ル・ヒマラヤ氷河観測隊 >>>

写真
左上:76ネパール、ハージュン氷河観測基地。アウフシュナイダーゆかりの地。
右下:82年インドCB14峰下部氷壁。
左下:89年ペルー、ピラミデ南壁で
2年後にちょっとしたきっかけから、文部省が若い探検好きの科学者たちをバック
アップして実現した「ネパール・ヒマラヤ氷河観測隊」に参加することになった。ク
ンブで懐かしいシェルパたちに再会すると”科学者になったのか?”と口を揃えて冷
やかされたが、ボクがメンバーに選ばれたのは計測機械や発電機などのメンテナンス
ができる技能を買われたからだった。
ボクの任期は3月から11月にかけてのモンスーン季だったが、7月に4400m
のハージュン観測所で熱と嘔吐に襲われ何日も身動きのできない状態になってしまっ
た。本気で命の危険を感じたが、気遣うメンバーと土地の人たちの善意に守られて1
ケ月後にカトマンズに降りた。
11月に狙っていたルーウェンゾリもだめになったとナイロビにいる相棒に電報で
知らせた。
”例の肝炎になっちゃったんだよ、オレも”
念願だった美しい山の中で過ごした日々よりも、ボクに救いの手を差し伸べてくれ
た土地の人たちのことが忘れられなかった。
で、第三世界でひとの役に立つ仕事をするのはボクの夢の一つになった。
入院していた間にカトマンズの本屋で手に入れたP.ボ−ドマンとJ.タスカ−の
チャンガバン西壁(‘76)の記録「シャイニング・マウンテン」を読んだ。英語は
赤点ばっかりだったのできつかったが、おもしろくてぐいぐい引き込まれた。チャン
ガバンは輝ける山なのだが、ボクはこれを“輝ける壁”と訳して読み続けた。ボ−ド
マンの眼差しが、みすぼらしい北インドの街路から、“輝ける壁”、そしてそれに立
ち向かうちっぽけな自分たちのこころのありようにまで広がっていたのがことに印象
に残った。
先立つものは何といっても体力です、体を鍛えるのは諸君の意思の力です
...伊藤邦幸
>>> 82年 CB14/インドヒマラヤ >>>
チミ−(妻)が肝炎後症候群の悪夢からボクを救い出してくれた翌年(79年)、
好運にもカトマンズで半年間自分の専門職に従事できる機会があった。
そして82年、”輝ける壁”っていいなあっと、ちょっと本気になりはじめていた。
その夏、3人の仲間とインド北部、ヒマチャル・プラデシュの未踏峰CB14という
6000ちょぼちょぼの山へ出かけた。事前に調べられた情報もちょぼちょぼで、そ
の割に自動車の走れる道路から近く、探検の要素と便利さが混じって、かつ岩と氷を
辿るクライミングが主体で、オトクヨウってところだろうか。しかもグレードは”ク
ライミング”誌の人気シリーズに倣っていえば、テン・アンド・アンダー。もっとも
、この頃はまだデシマル・グレードってなかったな、ボクの周りには。
登頂のあとBCで夜たき火を囲みながらマナリで雇った60を越えるコック、チャ
ンドーと僅かに通じるネパール語と稚拙な英単語を駆使してやや突っ込んだ話をした
。
印・パ戦争で家族とバラバラになってみんな行方は分からないという。セントラル
・ラホールは帰属の曖昧な部分を少なからず抱えているから、マナリは人種の坩堝だ
。ここにいれば各地からやってくる登山者、巡礼者、難民たちを通じて、生きている
自分のことが家族の誰かに伝わるかも知れない、っていうのだ。ボクは日本にいるま
だ1才にもならないボクの娘のことを思い浮かべると言葉を失った。
チャンドーの顔に刻まれたたくさんの皺はいまも脳裏に焼き付いている。
なんだかボクは、山登りがうまくても困ってるひとを助けられないようじゃだめだ
と思った。
クライミングがそういうことに寄与できるかどうかというのは、僕がいつも
心に掛けている点だ.....ダグ・スコット
>>> 89年 ペル−、ボリビア>>>

写真
右:89年ボリビア、ワイトポトシ6079m頂上よりチチカカ湖方。
左:89年ペルー、ヤンザヌコBCにて。サダンディーファンが見える
85年の春に父が逝き、その秋に山仲間のミケを失った。ネパ−ルで彼女が乗り合
わせたタクシ−がスンコシ(河)へ150mダイブしてしまったのだ。
89年に出かけたアンデスでは2つの雪に覆われたピ−クにミケの写真を埋めた。
しかし、肝心の目標だったペルーのピラミデ南壁はコンディションが悪かったことと
、それをものともしないほどのチカラのないことに気付いたので、取り付いてすぐに
降りてしまった。
つい最近この壁がアメリカ人とスコットランド人のペアに登られた。ボクの記憶で
は多分80年のD.レンショー以来の成功だろう。コンディションは大半がミックス
でTD++というから70年代のように安定したフルートを辿ればイタダキって訳じ
ゃなかったということだ。
クライミングにも理に適った背伸びは必要だが、制御と慎重さを侮る訳にはいかな
い。ピラミデはそれまでボクにとっての”輝ける壁”だったが、不遜な背伸びに気付
くとその輝きは失われた。
高所順応のトレーニングを始めるときから貧しいが精悍で屈強なインディオ、ファ
ンをテント・キーパーに雇った。ネパ−ルのシェルパと同じに、彼らもまた野生の高
所で強かに生きていく術を持った誇り高い人々だ。山の中にまで泥棒の横行するアン
デスではテント・キーパーは必須だと土地のひとにアドバイスされたのだ。だがファ
ンの能力はテント・キ−パ−を遥かに超えていた。
目標の登山が終わってボリビアへ移動する前の晩に彼を食事に招待したが、家族が
待っているのでと、紳士然とした礼儀正しさで辞退された。つばひろの帽子をちょっ
とつまんで、もっと岩の出ていない良い時季にまたピラミデへ行きましょうといい、
4才の可愛らしい娘をひょいと肩に乗せ、スク−タ−抜きの月光仮面みたいに消えた
。
山はだめだったが、タフでダンディ−なファンのお陰で気分は上々だった。
すばらしい日だったよ、相棒....レイ・ジャーダイン
>>> 90年 奇跡?! >>>
90年に奇跡が起きた。10クラスさえめったに良いスタイルでものにできなかっ
たボクがある日小川で名うての11bをオンサイトしたのだ。”遊びなんだから”と
訳知り顔でコンペを勧めるひとまで出現したのは、古典的だがグリコのオマケ。これ
が20代だったら(もう40さ)こっから破竹の勢い、ってことにもなったかもしれ
ないが、ある日登り慣れた10のド・スラブを落ちて奇跡も一緒にオチタ。
しかし、しょげるより、つかの間でもモウケ〜と思うことにした。
その道の猛者がかく語りき。11bなど奇跡でもなんでもないと、な。ついでに、
一流のクライマ−は風邪ひきやすいんだと。ばっかみてえ(失礼!)。
クライミングがうまくても風邪ばっかりひいてるような体じゃ困る。
ついでに言うと、足がちゃんと2本あるうちはフルマラソンを3時間程度で駆け抜
けられないような根性無しの自分はゴメンだし、水泳だってもっとうまくなんなきゃ
我慢できない。そうでなければ他人どころか自分自身の面倒さえあやしいぞ...ん?。
自分全体を成長させ、能力の一部でそのル−トを登れるようになりたい
...平山裕示

写真
右:小川山、私のルート、ジェイコブラダー。
左:91年ヨセミテ、ジョジョ5.10bをリードする私
とにかく、ツキはあっけなく落ちた。
しかしその年、めげずに奇跡の余勢を駆って、比較的ポピュラ−な壁に2人の仲間
とオリジナル・ル−トを設定した。その壁にはもう何本もル−トがあるから”開拓”
とは呼べないかもしれない。
シ−ズンの終わり、11月のうそ寒い日を選んで堂々とハンマ−を振るった。数回の
リハ−サルのあと吹雪の中でリ−ドした。ル−トは、ネパ−ルで逝ったミケへのレク
イエムとしたが、ボルトをトップダウンで打った余韻がそれ以前のものに累積してい
までもある。
天文学的な時系でいえばいつかは砂礫になるのだろうが、ボルトとそれを打ち込ん
だこと自体がそのときまでその岩に印されていることを思うと、ときに滅入ったりする
。誰かがル−ト開拓は創造的な行為だとまことしやかに言っていたが、こんなレトリッ
クは当たり前過ぎて何の意味もない。創造性や舌を巻くような技術、行動は、ふつ
うの暮らしのなかでだっていくらでも見つけられるし、極端な例をあげれば、最も邪悪
な殺人兵器の開発や理不尽な土木工事にさえ含まれているんだ。
プリ・ボルトのルート作りにケチをつけるなんてとんでもない。単に良いル−トを作
る自信がないだけなのかもしれない。自信がないんなら、ボトムアップとかナチュ・プ
ロのル−トを引けばと思うが、まだあるかもしれない空白部を探ったり可能性を考え
ているだけで残っている人生の大半が過ぎてしまいそうで怖い。松本人志流の”ウン
コちゃん”みたいなル−トはいやだし。...悩む。
それに、第一ボクはまだ、ときには誰かが引いた5.9にさえてこずることがある
のだ。
いまさら5.9なんてなんの価値もない...飯山健治
ガーン、ショック..イイモン、ガンバルゾオ(例外的筆者割り込み)
誰でも5.10程度は愉しんで登れるようになりますね...鈴木英貴
ホントゥ?..カナア?(例外的筆者割り込み)
>>> 91年 USA >>>
91年の秋、以前から打診しておいた大事な取引先に1ケ月の不在を通知して、二
人の仲間とおもちゃ箱をあさるような旅に出た。サンフランシスコでビュイックのト
ランクにクライミング・ギヤ、キャンプ・ギヤ、それに空を飛ぶ夢の道具、パラグラ
イダ−まで詰めてしまった。
ヨセミテの素晴らしいクラック・クライミングは、北インドを旅するみたいにスリ
ルと発見に満ちていた。でもワクワクするような冒険心や達成感と引き換えに腕、肘
、膝は血だらけでボロボロ。グレ−シャ−ポイントとトウオラミで冗談みたいにチン
ケなパラ(殆どグラハン)をやったあとオレゴンへ向かい、Mt.フッドからのパラ
・フライトを狙ったが強風で中止。
南に少し戻ってスミス・ロックへ。スミスではまだクライミングを始めて間もない
トミィが5.9,5.10レベルながら、取り付くル−トすべてをランナウトをものと
もせずオンサイトした。
しかし、彼女はこの旅のあと、”これって、おもしろいのお?”という衝撃的な名
言を残してあっという間に足を洗ってしまった。因みにこのセリフで少なくともどう
でもいいようなクライマ−のハシクレ野郎が2人自滅しかけた。
スミスからワシントン州シアトルを通ってさらに北上。国境を超えカナダ、バガブ
−を目指した。目指したが、その入り口で、なんだか魔が差して2000mくらいの
スウェンシ−というヤブヤマに捕まった。成熟と快適度NO.1の国だかなんだかし
らないが、退屈で死にそうなカナダで、さらに、なあんにもないフェアモントでひと
の絶えたキャンプ場に5日間も意地になって張り付き、季節風が弱まったわずかなチ
ャンスを掴んでビッグなフライトに成功した。でも頂上から見えていた、バガブ−の
尖った岩峰がうらめしい。おもちゃ箱の中身はまだたっぷり残っていたが、時間切れ
の立て札が目の前に立ち塞がってしまった。
しかし、世界はボクを魅了して止まない。
たとえば、未開の地へ出かけていって、適当な岩を見つけてクライミン
グするといったようなことです.....イボン・ショイナード
>>> 94年 邂逅 >>>

写真
左上:92年ネパール、ペリチェで。タウツェベースよりフライと。
左下:92年ネパール、ディック・バスと。
右:94年メララからのフライト
91年USAから帰国した翌日深夜。もっとも敬愛する”昭和一桁”の友人清水さ
んが長く辛い闘病生活からいきなり解放され、逝ってしまった。”あきらめるな”と
いうアンタッチャブルのショ−ン.コネリ−とそっくりな台詞と、”弥陀の請願不思議..
.”といういまだに訳の分からない嘆異抄の一節をボクに残して。
翌92年にネパ−ルのナムチェからひとりの若者、ペンバ・シェルパがボクの家に
やってきた。彼は20年来の友人ニマ・シェルパの長男で、将来へのあしがかりに日
本語学校への留学を選んだのだ。彼の世話を引き受けたボクは、清水さんの遺志も引
継いで、”日本”のアジア系外国人への不当な扱いとわずかな間だが、向き合った。
しかし、日本語学校を卒業後、写植印刷の技術を身に付けたいという彼の希望は、
どこまでも不透明なこの国の”入国管理”によって断たれた。こうして彼はやむなく
93年春に母国ネパ−ルへ戻った。
94年モンス−ン。
希望を捨てないタフなペンバとその婚約者テンジン、ボクの二人の娘、それにチミ
−、そしてあの天才”これっておもしろいのお?”のトミィでボクたちはクンブを歩
いた。ブル−ポピ−の咲くゴ−キョからタンボチェへ廻った。この地方最大のゴンパ
の裏手、北に張り出した尾根の針葉樹に囲まれて、ニマとボクと何人かの仲間で作っ
た清水さんとミケのレリ−フが並んでいる。雨に潤んだシャクナゲの林越しにモンス
−ンの雲がわずかに切れてアマダブラムがのぞいている。ボクは二人の遺したものに
思いを巡らせた。
So Far、So Good.....ブライアン・アダムス
>>> 95年 押し入れで見る夢、そして、再生 >>>
翌年春、子供の頃からの憧れだったボストンマラソンに出場。季節外れの寒さとコ−
スの起伏にしてやられ、ボロボロになってしまったが3時間38分でゴール。
その夏、新しい希望を抱いて渡米していたペンバとヨセミテで再会。ネパ−ルでは想
像もできない恵まれた環境のクライミングに彼も夢中になった。彼はこのあとテキサ
スでパイロット訓練校に入り、ヘリコプタ−の職業パイロットを目指すことになった。
その秋、久しぶりのヒマラヤ遠征。若い仲間に誘われてネパ−ルのメラピ−クに出
かけた。ひとりはスノボ、ふたりがスキ−を使う、それならボクはパラグライダ−、
ということになった。スノボとスキ−は首尾良くピ−クからの滑降をものにしたが、
ボクはコンディショニングに失敗し、最高点からのフライトを逸した。
10年前には考えられなかったペ−スで、アメリカ、ヨ−ロッパ、ヒマラヤへ出か
けられるようになった。経済的に豊かになったのは明らかだ。96年にはペンバとソ
ルトレ−クシティ−近郊や、日本の仲間も加えて、ジョシュアツリ−でもクライミン
グしたし、ヨ−ロッパ・アルプスでのパラグライディングも実現できた。
世界は目まぐるしく変化し、想像のなかにありつづけることで冒険的だったことが
、あまりに手軽に実現するためにある種の戸惑いが生まれた。
冒険と豊かな生き方の相克、あるいは相関。
新しい時代には新しいルールが必要だが、演じるゲームは同じである
...アラン・ラウス
また、トミィが名字を変えて(結婚したみたいだ)クライミングの世界に戻ってきた
。別人のようにヘタクソになってしまったが、皮肉なことにクライミングがとてもお
もしろいと感じるようになったという。”天才”だった頃にはみせたことのない輝く
ような笑顔で、やさしいル−トからもう一度やり直し始めた。
すばらしい。じつにすばらしい。
当たり前だが天才にだけ豊かさがもたらされるって訳じゃない。76で他界した年の
離れたある友人は、”人生は夢”だと言い残した。清水さん、それに飛躍するがもっ
とずっと前に生きた織田信長も、世阿弥の”夢/幻”にこだわった。
人生が夢なら、誰のどんな夢にだって価値がある、とボクは思う。
クライミングはその最高位に必ずしも”競技”があるという訳ではない。他人と比
べたり競ったりする世界とは別の基準で計らなければならないような意味もそこには
ある。
自分の命を文字通り手中に握り、自分の運命の主人公になること
...クリス・ボニントン
6畳1間に親子4人で暮らしていた少年時代、ボクはたいてい押入で寝ていた。そ
の小さな空間がボクに想像力を与え、いつかはそこからどこにでも飛び立っていける
自分を予感していた。50を目前にしてもボクは相変わらず”押入”から夢を膨らま
せる。ヒマラヤ、アンデス、パタゴニアでのクライミングやそこで暮らす人たちとの
語らいを思い描くだけで胸がわくわくする。
ヒーローには程遠いにしても、走ったり泳いだり空を飛んでタフになることが、いつ
かは誰かを、そして自分を救うことになるだろう。そして、”輝ける壁”へのクライ
ミングを触媒にして、まだ知らない世界へ旅に出て、自分を試すのがいつでもボクの
夢なのだ。
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