ABOUT BOLT

ボルトはなぜ打たれるのか
菊地敏之

 
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  先日、何年かぶりで衝立の雲稜第1を登り、あまりの悪さに参ってしまった。しかし参ってしまったのは
、ただ荒れていて悪かったからというわけではなく、どうも納得いかない部分が多すぎたからだ。というの
も、その悪さというのが岩登り本来の難しさというより、全て支点の錆び具合によるものだったのだ。
  クライミングの難しさ、悪さというものは追求しがいがあって面白く、滅多に出ない我々の向上心を大い
に喚起させてくれる。しかしその“難しさ”にこうした受動的な要素を加える事は、一昔前なら一笑に付さ
れたに違いないことだが、どうも違う気がしてしょうがない。なんで他人が打ったハーケンやボルトの、し
かもなすがままの錆び具合なんかに命を託さなきゃならないんだ?  そもそもハーケンを残置し、その残置
ハーケンを辿る事が本来の岩登りなのかどうか、ということを抜きにしても、ボルトに関しては、どうせ使
うならしっかりしたものに変えてもいいんじゃないか、と思ってしまう。
  まあ、そうは言っても、さすがに衝立での支点の整備となると話が現実離れしてしまうだろう。だが、こ
の夏やはり“荒れ放題”だった小川山の事となると、いささか事情は違ってくる。
  今年長雨と集中豪雨に翻弄された小川山でクライマーの話題を独占したもの、それはどこそこの道が崩れ
たとかということではなく、意外にもチッピングとボルトの乱用だった。チッピングについては今更言うま
でもないが、ボルトの事となると問題は複雑だ。
  というのも、ここでボルトを打つ人間は、フリーで登れないからボルトを打つ、ではなく、あくまで安全
のため、あるいはルートをルートたらしめるために、なかば奉仕の気持ちでボルトを打っている、あるいは
その様な建て前を掲げているからだ。
  だが、それも、見る人から見れば“乱用”となる。
  この見解の相違を云々するには、まずフリークライミングに於けるボルトの意味について、いやそれより
先にフリークライミングとは何か、ということをもう一度考える必要がある。
  それではフリーとは何か? ということで、あえて私見と断りを入れて述べさせていただけば、それは自
然が与えてくれた岩壁という遊び場を、自然が与えてくれるもの以外何も使わず(つまりタダ=フリーで)
、トレースするということだ。
  だが、そうは言ってもその対象が難しくなれば、理想ばかりも掲げていられない。靴が必要になり、ロー
プが必要になり、やがてプロテクション用のギアが、そして最終的にボルトが必要になってくる。よく言わ
れる「ボルトはフリーの妥協点だ」という言葉はこのプロセスを抜きにしては理解できないだろう。つまり
ボルトは理想論としての“フリー”が行き詰まった時、具体的にはナチュラルプロテクション・テクニック
や、フリーソロ・ランナウトに対するセルフコントロール能力あるいは精神的な力が限界に来た時に初めて
使うものなのであり、それを無視した多用は、乱用と見なされても仕方が無いということだ。
  例えばある人があるフェースを、できる限り少ないボルトで初登した、ということは、その人がその壁を
恐ろしいプレッシャーに絶えつつ、できるかぎり“フリー”で登り、そのルートとしたということだ。今年
少なからず見受けられた既成ルートへのボルト打ち足しは、そうした事実を完全に無視していると言える。
先人と同じプレッシャーに耐えられないなら、そのルートを登るべきではない。フリークライミングは肉体
の向上と同じく、精神の向上も必要とされる。そうした力の結実が、個別のルートというものなのだ。
  また、クライミングの楽しみ、というか必要技術の一つに、頭脳の問題がある。それは具体的には数ある
岩場の中からルートとして妥当性のあるラインを見つけ、しかもそこでもっとも効率よいラインを選んで登
るというものだ。当然、それを無視したルート設定とボルトのセッティングもやはり乱用と呼べる。その具
体例として最近、優れたクラシックルートの脇に無節操に作られた、知性のかけらも無い新ルートが実に多
く見られるようになった。今年その内の何本かは有志によってボルトが撤去されたが、そうした処置は全く
正しいと私は思う。
  ボルトは岩場に打ち込まれたらその時点で公共性を持つものだ。そうした意味で古いボルト、強度に疑問
があるボルトは、それを使う者が常に受動的な立場にあるという事を考え、整備して然るべき、あるいはそ
の方が望ましいと思う。しかしまた逆に、ボルトの存在そのものについては、ボルトが無い、ということも
一つの存在意義だということを忘れずに考慮する必要がある。
  さて、衝立岩と小川山、随分身勝手にボルトに対する矛盾した意見を述べ立ててきた。本来各人各様のこ
うしたセンスは、一律に統一しようとしたり、数値で表そうとしても無理があるものだが、そうはいっても
クライミングという一つの社会に属する以上はある程度共通の感覚を持たなければ成り立たないだろう。結
局の所、何の分野でもそうだが、自己主張をするにはそれなりに時間をかけ、少なからぬ努力を払ってその
分野の事を充分に勉強する必要があるということだ。そういった意味で、ボルトについては、安易な自己主
張に終わらぬよう、一考を促したい。
 

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